聖書には、隣人を自分と同じように愛しなさいとある。ところが、実際これほど難しいことはないのである。当然のことながら、それは自分が嫌いな人間も含むのだから。嫌いな人間を愛する、これほど難しいことはない。そして、難しいと言って実際には愛さないのが我々人間なのである。「愛せなかった」のではない、「愛していない」のである。

では、「愛する」とはどういうことか。それはちょうど恋愛と結婚にも例えられるように、好きということと、愛しているということとを考えてみればよい。恋愛をしている時には、お互いに気を使い合うだろうし、嫌な部分というのはなかなか顔を出さない。しかし結婚してみると、それぞれの嫌な部分も見えてくるのである。そこで、「愛する」ということが必要になる。夫婦の場合でもそうなのだから、これがそれ以外の人間との関係になれば、更に困難なものになる。聖書にはこういう話がある。

一日中漁をしていたにも関わらず、全く収穫がなく気落ちしていた弟子にむかって、イエスが「沖へ舟をこぎだし、もう一度網をおろしてみなさい」という話である。そこで弟子はこう言うのである。「一日中漁をしましたが何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、もう一度網をおろしてみましょう」。そして網を引き上げると、舟が沈みそうになるほどに沢山の魚がとれたのである。ここで重要なのは、「お言葉ですから」と言って「実際に行動したこと」だ。本音では、「再び網をおろしても同じことだ」と思っていたかもしれない。しかし、それでも良い。私が考える「愛する」ということは、この考えに近い。

好きな人を愛するのは、あたりまえのことであって、何ら難しいことはない。しかし嫌いであっても「愛する」ということが、重要なのである。もっと言えば、嫌いでも良いから「愛する」のである。そこで初めて、「愛する」ということの意味が見えてくるのではないか。我々クリスチャンは、自分の思いはどうであれ、「お言葉ですから」と言って「行動すること」を求められているのである。「好きだから」愛するのではない。「神が愛せとおっしゃるから」愛するのである。

先の漁の話に戻るならば、実際に魚がとれるということを体験したその弟子は、自らの不信仰を恥じたことだろう。そして、より一層信仰を深めたに違いない。愛するということは、「愛することでしか」理解できない。何年も頭の中で考えたとしても、全く理解できないものなのである。「できない」と思っているだけでは駄目なのだ。重要なのは、できないと思いながらも「やってみること」なのだ。私は、実際に愛してみることで、愛することができるようになると信じている。

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